荘川桜へオマージュの旅

 

荘川桜へオマージュの旅
かみむらとみこ(MBS)

満開の荘川桜(荘川観光協会提供)

「荘川の桜を一緒に見に行きませんか?」笹部新太郎氏は、当時毎日新聞社の社会部の記者をしていた北野栄三氏(元関西民放クラブ会長・MBS)を誘った。昭和36年春、北野さん30歳、笹部氏は70半ばの頃である。

この日から少しさかのぼり、昭和27年(1952年)岐阜県の白川村と、荘川村という二つの村の間に、御母衣ダムが建設されることになり、当然両村の住民の熾烈な反対の中、話し合いの末、昭和34年の秋、遂にダム建設が決行された。その時、この計画の責任者だった電源開発初代総裁の高碕達之助氏は村に1本の桜の古木を見つけ、住民のためにも何とかこの桜を救いたいという強い気持を持った。高碕氏は、友人でもあった宝塚の山奥に住む日本唯一の桜博士・笹部新太郎氏に要望を伝えた。桜の移植は難しい。しかも樹齢450年くらいと推定される老桜である。笹部氏は早速現地を訪れ、さらにもう1本の古木も発見し、この2本の移植を試みることにした。

高碕氏は、移植にかかる人件費、機材、園芸の全費用を負担、至難の大作業が始まった。みな心をいつに、この大事業に取り組んだ。そして昭和35年末、照蓮寺と光輪寺にあった二本の老桜は1000㍍離れたところまで移された。果たして根が付くかどうか。関係者が祈るような気持で2本の桜を見守った。人々の思いは見事報われた。昭和36年の春、藁で囲った幹の隙間から、太い若芽が顔を出していた。これが北野さんによる、36年5月23日つけの毎日新聞社会面の記事になった。

高碕氏は、
 ふるさとは 湖底となりつ
 うつし来し
 この老桜咲けとこしへに
と、詠み、6月12日の水没記念碑の除幕式では、故郷がダムの底に沈んだ村の人々をはじめ、関係者一同涙が止まらない式典となった。このアズマヒガンザクラは、その後、荘川桜となづけられ、今も生き続けている。

荘川桜を訪れた上村さん一行

実は今回の我々の旅は、2019年、この話を北野さんから聞いた、亡き西村嘉郎会長(当時)が、是非荘川桜を見に行きたいと願望され、2020年の春、企画された。だが、その頃からコロナがまん延し始め、急遽取りやめとなっていた。その間に西村さんは、コロナではなくほかの病に倒れ、この世を去られた。そして今回西村さんを弔う旅として再度企画された。旅人は、北野さん夫妻、山本雅弘前会長夫妻、志風洋子、井上知津子とその友人、上村十三子の関西民放クラブのメンバーである。

荘川桜の見ごろは難しい。例年では満開期は4月末から5月のゴールデンウイークとなっている。昨年は異常な暑さで、4月11日に開花した。今年は?悩んだ末、4月23日に出かけた。ちょうど見ごろなはずと期待して出かけた。だが桜はチラホラ咲き。地元の人の説明では、今年は蕾の頃に、ウソという鳥がやってきて食べつくしたという。桜を好きな鳥がたくさんいて、年により蕾の時に食べてしまうとのことである。残念ながら今年はその犠牲になった当たり年だった。それでもチラホラ咲いている花を愛でながら、樹高21㍍、目通り(幹の太さ)6メートル近い荘川桜に敬意を籠めて鑑賞した。花こそ少なかったけれど、樹齢500年を超える老桜は深く根を張り、大空に向かって枝葉を大きく伸ばし、多くの人たちの熱意と愛情を受け止め、のびやかに育っていた。

北野さんは実に63年振りに荘川桜と対面し、ずいぶん根が成長し太くなったようだ、と感慨も新たにされ、次の歌を詠まれた。
 古さくら ちからしめして花咲けり
 移した人の記憶とどめて

 

 

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