海外移住者
日本人で海外で一旗揚げたい海外移住者は、戦争前には満州を目指した。狭い日本を脱出して、満州国は当時、日本を凌ぐ国際的な日本の一部となった夢のような近代都市のある植民地だった。百貨店にはエスカレーターが上下し、大陸横断鉄道のアジア号がここから欧州にまで連絡できる路線を敷設していた。国内では長男が親の資産を受け継ぐ制度の下では、次男から下の男の子に、親は分け与える資産がなく、兵役に就くか、海外移民で頑張りたい若者が結構な数いた。
中国地方や東海・南海地方の移民はアメリカやカナダを目指し、関東、東北の地方からは満州が多く、九州や沖縄からはブラジル、メキシコ、パラグアイを目指した。選んだ国が出身者の気候に即した土地柄だったのは自然の成り行きだった。大戦の結果、満州帰りは悲惨な引き上げを体験し、アメリカやカナダでは敵国人の日本人の収容所経験もあった。してみるとブラジル移民200年を祝った南米への日本人移民は大したものです。今上天皇が皇太子時代にブラジルにわざわざ渡航して移民200年祝賀祭にお出かけになった。ペルーでは日系フジモリ大統領を生み、ブラジルでは地位の高い日本人が多く生まれた。
しかし、戦後のアメリカに移住した数多くの学者がいる。3人もノーベル賞の受賞者がいるのは、アメリカの研究風土が合っていたのかもしれない。曰く、南川陽一郎博士は素粒子物理における自発性対象の破れを発見して、中村修二博士は青色発光ダイオードの発明で、世界の電気の節約に寄与する光を作り出して、真鍋淑郎博士は気象変動を早くに想定した先駆け予測の方法を考え出して、それぞれ受賞した。
1970年から2000年までは日本はバブルに沸いて、お金持ちナンバーワンでしたので、羽振りがよく、日本企業は海外のあちこちに不動産を買いあさり、バブルが弾けて見れば、長いデフレで日本経済は中國に追い抜かれていました。海外に先駆けた企業も今度は規模の縮小に走り、今でも海外で鼻息荒く頑張っているのは、トヨタとソニーしか頭に浮かびません。企業の栄枯盛衰のスピードが速く、目まぐるしい変転の世紀であったように思います。
海外に進出した企業の多くは、現地採用に日本人と日系人を多く雇い、本当の意味の現地人雇用は、現在、縮小しています。これだけで進出企業の心の狭さが分かるようです。外国人現地人を多く雇用するユニクロが世界企業に成長したことを思えば、海外の大企業になるためには、採用国籍に差を付けないことが大切です。
日本は世界から憧れる国です。人の優しさ、モラルの高い、均一の社会訓練がされた労働者がいて、居住区はどこでも安全安心。物資は豊富で、都会の便利社会は世界一の便利な国です。それに郊外や田舎には住みたい空間がいっぱいあります。もし少子高齢化を恐れ、外国人で人手をカヴァーするのなら、外国人らを多く田舎に住みこませたら、どうでしょうか? アメリカの移民受け入れが成功したのは、先住の友人たちを頼って、多くの国から人を呼び寄せることができたからです。アメリカの移民は人種のルツボとは言わず、パッチワークというようになりました。オランダ人やイタリー人の多いニューヨーク、東欧人やポーランド人が多いシカゴ、フランス人が多い南部、イギリス人が多い東部、東洋人が多いのは西部ロサンジェルスなどなど。
日本への移民受け入れ政策は組織的な土壌がなく、デタラメです。憧れてやってくる日本に相応しい外国人への対応ができていません。多くの外国人が働く中東のアブダビやシンガポールから移民受け入れている政策を学ぶべきです。国内に目を向けて移民政策をする時には、併せて外国がどのように移民を受け入れて来たかを学ばねばなりません。狭い視野の入国管理局は解体する必要があります。
伊藤妙子(KTV)