私の想い出の一曲 「恋人よ」 ロシア編Ⅱ
私たちの乗った東海大学海洋学部の海洋調査研修船・望星丸がゆっくりとウラジオストクの金角湾に入っていきます。やがて岸壁が見え人々の姿が鮮明になってきました。ロシアに来るのは初めて、人々に会うのも初めてです。
1989年10月、静岡県の清水を母港とする望星丸が、姉妹校・モスクワ大学との交流のためにウラジオストクへの航海をするにあたって、“メディアの同行取材を募集しているが、静岡の系列局は行かないので関西テレビさん、如何?”と情報が入りました。報道局に異動して1年「行ってみないか?」と指名がかかり、特に深く考えないまま、というより「面白そう」という気持ちで手を挙げてしまいました。
テレビ、ラジオ、新聞関係者は北海道小樽港から乗船する事になり、カメラマンと二人、結構沢山の荷物を持って小樽へ向かいました。瀬戸内海のほとりで育ち父の所有する釣り船に乗っていたので元々海は大好き、1770トンの望星丸を見て久々の海の旅に胸躍らせていたのですが、その喜びは出帆から数時間までの事でした。船内で簡単なブリーフィングがあり、船に馴れるには水平線を見ていると良いですよと促されているうちに「・・・・・・・・」。
こんなはずではなかったのですが、もっと船には強い積りだったのですが。
船首近くのベッドとトイレを往復する時間が始まりました。すこし収まってくると、サントリーの「はちみつレモン」を飲んで元気をつけ、またトイレとベッドの往復。
この船には松前総長を始め、関係各学部の先生たちも乗っていて、各部屋に割り当てられた“食事当番”もあったのですが、とんでもない事。後で聞くとメディア関係者はほぼ全滅だったそうです。
小樽からウラジオストクまでは約50時間の船旅、ようやく揺れに馴れて来た頃、甲板で勉強会が開催されました。前述通り大学の様々な学部の方が乗船していて、森林に住むシベリアトラの研究に行く先生の話はスケールの大きな興味深い話でした。勿論ロシア語の先生も居てロシア語講座も開講されました。
金角湾に入った頃も講座の最中、中学校で初めて英語を習った時のように「こんにちは」は“ズドラースト・ヴィーチェ”、「これは犬ですか」は“・・・・サバーカ?」などやっていました。
正にその時です。私たちの入国検査のために、税関船が近づいて来ました。そして舳先にはなんと中型の犬がしっかりと足を踏ん張ってこちらを見ているではありませんか。“サバーカ”です。10人ほどの受講生は甲板から身を乗り出して今覚えたばかり、「サバーカ?」「・・・・サバーカ?」と一斉に。
税関の職員も初めは笑いながら「ダ、ダ、ダ(イエス)」なんて言っていましたが、おしまいには両手を広げてあきれかえっていました。「日本に犬は居らんのかいな?」とばかりに。
サバーカ騒ぎが一段落した頃、いきなり五輪真弓の「恋人よ」が大音量で海上に響き渡りました。「なんだ、これは?ウラジオストックで“恋人よ”を聴こうとは」と驚いていると「今、ロシアでは五輪真弓の曲がとても流行っていて、我々の歓迎の意味で流してくれていると思います」と東海大学の方が説明してくれました。日本海50時間の航海のあと、波穏やかで広大な湾内を流れてくる「恋人よ」を聴くのはまた格別でした。五輪真弓の曲はどれもスケールが大きく、ロシア人に喜ばれる由縁かと思いますが、船が着岸したあとも延々と流れていました。
私は子供の頃、「ウラジオでは北北東の風、風力2・・・・」というラジオの気象情報をよく聴いていたので希望して気象台に連れて行ってもらいました。気象台に行ってみるとなんと、日本語の解る人が大勢居たのです。ウラジオストクは海運の街、漁業の街、海の仕事に携わる人たちに日本からの気象情報を伝えるためというのがその理由ですが、更に小学校から日本語教育をしているというので授業を見学させてもらいました。おもちゃの電話機を使ってお話をするという2年生くらいの教室、本当にお人形さんのような可愛い子供たちが「モシモシ、、」とやっています。でも「モシモシ、アリョーシャさんですか?(如何にもロシアらしい名前と思っていたら)、ではサヨウナラ」、電話はアッという間におしまいになりました。
ウラジオストクの極東大学には日本語学科があり、教授と学生が、この旅行で私たちの通訳、ガイドを務めてくれ大いに助かりました。まだ物資は十分ではなく、ブラックマーケットで中古のジーンズが高値で売られていたり、ボディに日本の広告がコピーされたままの中古車が走り回っていたりする時代でしたが、初めてのロシア・ウラジオストクは五輪真弓の「恋人よ」とともに忘れがたい想い出として今も心に残っています。
出野徹之(KTV)