春季総会(2016年4月8日)の講演
「放 送 の 力」
国際日本文化センター教授
井上 章一
拙書「京都ぎらい」(朝日新書)の宣伝ありがとうございます。おかげさまでよく売れていますが、この本、最初は大阪で売れ出したと聞いています。京都ぎらいの人が多いせいですかね。
それはさて置き、きょうは「放送の力」ということでお話しさせていただきます。実は、楽器演奏にはほとんど無縁だった私が、41歳からピアノを習い始めました。北新地のクラブで白髪のお爺さんが、ホステスのリクエストに応じて、こちらにウインクしてからスタンダード曲の「マイ・ファニー・バレンタイン」を弾いたんです。むちゃくちゃ恰好よかったんです。ピアノ席にいるのが、なぜ自分ではなくて、あのお爺さんなのか。次は私の弾く姿を見せ、みんなに悔しい思いをさせたい。その一心でした。1991年のことでした。この年に何があったのか。
オッサンがピアノ教室に入会したのは
テレビではドラマ「101回目のプロポーズ」がフジ系列で放送され、大ヒットしました。主演の武田鉄矢が思い焦がれる浅野温子をラウンジに招き、ショパンのピアノ曲、エチュード第3番「別れの曲」を弾いて、彼女を射止める話でした。この曲は浅野の亡くなった恋人が得意としたもので、それを知った建設会社の係長、武田が一念発起してピアノを習い、演奏したものでした。この話には相当無理があります。あの曲はオッサンが習って弾ける曲では絶対にありません。しかし、「別れの曲」を弾いて、101回目のプロポーズに成功した途端、ピアノ教室に分別ざかりのオッサンが殺到したというのですね。
実は私、このドラマは見ていませんでした。しかし、ここに「放送の力」を感じました。世の中の雰囲気をテレビが作っていたのです。私はこの雰囲気に影響されたのです。私がピアノを始めたのは「マイ・ファニー・バレンタイン」とウインクではなくて、多分「テレビの力」だったのです。
六甲おろしの火付け役は
「激闘 阪神タイガース50年史」というビデオを見たことがあります。1962年10月3日の甲子園球場。小山正明は広島カープを完封し、セリーグ優勝を飾ったのですが、この日、外野席はガラガラでした。今は連日満員です。こういう変化は誰が作り出したのでしょうか。それから球団歌「六甲おろし」。あれは妙な曲ですね。シーズン中に六甲おろしは吹きません。吹くのは反対から吹く浜風です。作詞の佐藤惣之助は西宮に来ずに、筑波おろしをイメージしながら作詞したに違いありません。作曲は小関裕而ですが、この曲は武庫川女子大の校歌にそっくりです。出だしが特にそうです。昭和11年、武庫女に2年遅れてできた曲ですが、誰も「六甲おろし」なんて知りませんでしたし、たまたま似てしまったのでしょう。この曲をはやらせたのも「放送の力」でした。朝日放送ラジオの「おはようパーソナリティ」で、タイガースが勝った翌朝は中村鋭一さんが「六甲おろし」を高らかに歌うようになってから、多くの関西人に知られるようになったのです。
テレビ中継が客を呼ぶ
もう一つ忘れてはならないのが、1967年のサンテレビの開局でした。番組の確保には相当悩んだことでしょう。窮余の一策だったのでしょうが、タイガース戦の全試合完全中継を始めたところ、大成功しました。これ以降、甲子園球場の観客数はうなぎ登りに増え続けました。サンテレビの貢献度は高かったと思います。
1998年、NHKのBSが開局しました。昔のサンテレビと同様、放送枠を埋めるのに悩んだのでしょう。目を付けたのが当時、人気急上昇中のタイガース戦です。札びらの威力にものを言わせたのでしょうか。NHKは20数試合の放送権を獲得し、サンテレビの全試合完全生中継の路線は崩されました。「サンテレビに対して感謝の気持ちがあれば、高い権利金を提示されても、NHKの申し出を撥ね付けるのが筋でしょう」と、なじろうとは思いませんが、やるせない気持ちになりました。ちょっと、話がずれてきたようですが、このまま行かせてください。
おばちゃん像を作ったのは…
産経新聞で「大阪まみれ」という連載を始めました。ここで大阪のおばちゃんに触れ、「大変にぎやかで、物怖じせず、人懐っこい、まるで芸人のようだ」と言われているが、昭和7年、谷崎潤一郎は「言葉数が少なく、品よくしゃべり、ほのめかす言い方を得意にしている。それに比べて東京言葉は騒々しすぎる」と書いています。谷崎は大阪のおばちゃんを見なかったのでしょうか。いつごろからあのおばちゃん像ができたのでしょうか。ここにも放送局、テレビの見えざる力が働いているように思えてなりません。
(TVO 中川民雄)