2015年4月10日 春季総会の講演
「地球を歩いて見たこと、聞いたこと、考えたこと」
探検家・医師・武蔵野美術大学教授
関 野 吉 晴
1971年、初めて南米のアマゾンに渡りました。それからひたすら南米ばかりに通い、20年間のうち10年ほど滞在しました。アマゾン川を源流部から下り、支流を含めてほとんど制覇しました。とは言っても興味は人間にありました。外部と接触していない原住民に興味がありました。そこへ行って「何でもするから」と言って泊めてもらい、食べさせてもらいました。結局大したお手伝いも出来ず、子供と遊んでばかりでした。すっかり現地に溶け込んだせいか、町に出ると「おまえは何族か」と聞かれたほどでした。
なぜグレートジャーニー
後半では、パタゴニアやギアナ高地と探検の範囲を広げましたが、いつも疑問に思ったのは、原住民が日本人とよく似ていることでした。我々と同じモンゴロイドの住人がユーラシア大陸からベーリング海峡を渡って南下し、南米までたどり着いたということは書物を通して知っていましたが、実際に彼らを見た衝撃は強烈でした。いつごろ、どうして、どういうルートで、どういう手段をもってして、ここまでたどり着いたのか。自分の足で、それを探ろうとしたのが「グレートジャーニー」です。南米南端の島から、人類誕生の地、アフリカのタンザニアまで逆にたどる旅で、1993年に始め、2002年にタンザニアに到着しました。これは長期シリーズでフジテレビ系列で放送されたので、ご覧になった方もおられるかと思います。
弱い人が新天地を開拓
現生人類・ホモサピエンスは6万年前、何故アフリカを出たのか。山のあなたの空遠くにある新天地への好奇心からだったでしょうか。豊かな土地が広がっていると期待したからでしょうか。決してそうではないのです。出て行ったのは弱い人で、追い出されるようにしてアフリカを出たのです。強い人は動く必要がないのです。新しい土地では、また弱い人が生まれ、遠い未開の地に追いやられ、さらに遠くへ行くということを繰り返して、とうとうヨーロッパや南米の先まで到達したのです。アジアを東へ東へと追い立てられた弱い人が最後に行き着いたのが日本列島でした。ここに日本人が生まれたのです。
日本人のルーツを探る
「ぼくたち日本人はどうやって日本列島に来たんだろう?」という思いが募って2004年から始めたのが「新グレートジャーニー」でした。シベリア、樺太を経由する「北方ルート」、ヒマラヤの南から朝鮮半島を経由して対馬までの「南方ルート」、そしてインドネシアから南西諸島を経由する「海のルート」の3ルートをたどりました。最後の「海のルート」では2007年にインドネシアのスラウェシ島を出発して4年をかけて石垣島に到着しました。太古の人々と同じ航海をしたかったので、船の材料はすべて自然のものから調達しました。舟を作る道具は鉄ですが、砂鉄を集め、タタラ製鉄(古代の製鉄法)で鉄を作り、工具に加工するといった具合でした。帆やロープなどもすべて自然界にあるものを利用しました。航海はコンパス、GPSは使わず、太陽、星、月が頼りで、潮任せ、風任せですから、ずいぶん難航しました。この航海で自然観が変わりました。人間は自然の一部であって、動植物は私たち人間のために存在するのではなく、自然があって生かされているのだということです。自然は時に悪さをすることもありますが、謙虚に付き合えば、恵みをもたらしてくれるものであって、征服する対象ではないということです。40何年も旅しなくても判ることだろう、と言われるかもしれませんが、これは偽らざる実感です。
(TVO 中川民雄)