プロ野球昔噺 Ⅱ

 

プロ野球昔噺 Ⅱ

 今年もプロ野球、春のキャンプが始まりました。コロナ禍のもと各球団とも様々な対策をして例年とは全く違う緊張感が漂っているようですが、今は昔、のんびりとキャンプが出来ていた頃のお話。

 

「それがどうした」

 今は亡き西本幸雄さんとは、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ時代は監督として、その後、関西テレビの解説者としてお付き合い頂きました。
現役時代は近寄りがたい方で、特に阪急の頃は、当方が新人ということもあって先輩アナの後ろから、そっと話を聞いていました。

 これは近鉄時代のキャンプでの話。当時、阪急ブレーブスは高知市営球場、南海ホークスは大方、近鉄バファローズは1976年から宿毛という高知県の南部で春のキャンプを行っていました。ただ宿毛という土地は南国高知でも結構寒いので有名でした。繁華街もなく、高知まで遊びに行くにも遠いので「野球に専念できる」と西本さんがキャンプ地に選んだと伝えられています。

 西本監督は誰よりも早くグラウンドに現れ、グラウンドの係員と一緒にトンボを使って地ならしをするのです。猛練習で聞こえた近鉄ですが監督自らが先頭に立つのですから選手も気合が入ります。

 担当記者も例外ではありません。西本さんから少しでネタを引き出そうと早くからやってきます。その日は特に寒く、雪もちらついています。九州島原でキャンプをしている、ライオンズが降雪のため休みになりました。情報を得た記者が早速「監督!島原のライオンズは雪で休みになりましたが(近鉄も休みでしょうね?)、、、、、
トンボの手も休めずむっとした表情でボソリ、「それがどうした」
記者「・・・・・・・・」
あったかいのですがぶっきらぼう、西本さんらしい逸話としてプロ野球担当記者の間で長い間、語り草になりました。

 

〇サモアの怪人

 プロ野球の監督はどうして皆さん、早起きなんでしょう。これも朝早い話。

 日本ハムは、1980年まで、会社創業の地、徳島県の鳴門市営球場で春のキャンプを行っていました。南国徳島とは言っても、それほど暖かくはなかったのですが。当時はチーム担当の新聞記者こそ常駐していましたが、テレビメディアが取材に行くことなど殆ど無かったので、プロ野球ニュースのテレビクルーが取材に行くと大歓迎でした。関西テレビの解説者だった水谷実雄さんとベンチを訪問すると「お~、よう来たなぁ」とよもやま話に花が咲きます。江戸っ子の大沢さんはべらんめぇ口調で、「俺も朝早い方だけどさぁ、この前、マネージャーと何時ものように一番乗りで球場に行ったらさぁ、カーン、カーンって音がするんだよ。入り口には鍵がかかってんのにおかしいなぁってグラウンドに行ったらよぉ、ソレイタがマシン相手にバッティングしてやんの。どうやって入ったんだ?って聞いたら、塀を乗り越えたんだってさ。へぇ~ってなもんだよ」と言いながら嬉しそうでした。トニー・ソレイタは1980年の新外国人選手、「サモアの怪人」とニックネームが付けられ、ヘラクレスのような真四角の体格でホームランを量産しました。1年目にいきなり45ホームランを打つなど、トミー・クルーズとともに日ハムの1981年の優勝に貢献しました。

 真面目な性格で、塀を乗り越えてでも自分の納得いくバッティイング練習をしたかったのでしょう。今から何十年も前の事ですから、地方球場は格別セキュリティーが厳しい訳でもなく簡単に入れたのですね。

 

〇「鶴(鶴岡)さん」と、草分け女性スポーツ記者

 今、CSでプロ野球中継を見ていると、ベンチリポートと試合後のインタビューは必ずと言って良いほど女性リポーター。最近は試合前のベンチに行く機会など無いのですが、さぞや女性記者、リポーターも大勢いる事でしょう。

 これは関西初の(多分)女性プロ野球記者の話。

 1968(昭和43)年だったと思います。難波の大阪球場では鶴岡監督が試合前のベンチで記者たちと談笑しています。駆け出しアナウンサーの私は先輩について野球の勉強を始めたばかり、記者団の後の方で見ていました。「これが鶴岡さんか」という思いでした。そこにスポーツニッポンの南海担当の記者が若い女性を連れてきました。「監督、ウチの記者です。今度、南海担当になりました。ウチでも初めての女性記者です。宜しくお願いします」。

 鶴さん「おう、宜しくな、(スポニチやるな)」と満更でもない顔で応えましたが、むしろ他社の記者連中の方が「おっ!」という感じでした。何せベンチはもとよりロッカールームは正に男の匂いがムンムン、試合後は選手が裸に近い格好で風呂に行きます。担当記者はそんな選手を捕まえては話を聞くのです。

 そんな世界に紅一点が入ってくるのですから、男性記者連中も穏やかではなかったと思います。結構体格の良い、体育系といった感じの女性記者でしたが選手は勿論、記者、カメラも100%男性という社会で着実に力をつけ、後年、ある資料で見ると、管理職になっていました。知っている人は少ないと思いますが、約50年前に女性スポーツ記者の先駆けとなり、今の女性リポーターたちの道を切り拓いた方のお話でした。

 その鶴岡さん、試合後、記者から「監督、あの場面、もし送りバントが成功して“たら”局面は変わったかも知れませんねぇ」と聞かれて「“たら(鱈)は北海道や、野球に“たら”はない」

 後に解説者としてお付き合い頂いた岡本伊三美さんから聞いた話
「なぁ岡本、“ようと(よく)”聞けよ」鶴岡さんは広島の出身、そこここに
広島弁が出てきたそうで、仕方噺風に面白可笑しく語ってくれました。
流行り言葉で言う所の“オーラ”のある笑顔を思い出します。

 

〇華麗なるアンダースロー

 阪急ブレーブスの黄金時代を支えた選手の一人、山田久志投手が引退することになりました。1988年10月のシーズン終了間際、山田が最後の登板をする、というので想い出多い西宮球場に行きました。実はこの年の8月、人事異動でアナウンサーから報道に移っていたのですが、この日ばかりは早めに会社を出て球場に向かいました。雄姿を目に焼き付けておきたかったのです。山田、福本、加藤といった選手とは阪急の低迷時代から黄金時代まで、そして優勝祝いのハワイ旅行まで一緒に行った、いわば青春時代を一緒に過ごした仲間といった感じでしたし、同じ阪急グループという仲間意識もありました。

 マウンドで投げる山田、何時に変わらぬ、流れるような完成されたアンダースロー。杉浦忠さん(南海ホークス)と、山田久志の投球フォームは本当に芸術品でした。いよいよ最終回、ファンの歓声とため息が混じり合って何とも言えない雰囲気、「ヤマさ~ん、辞めんといて」という女性の声も聞こえてきます。私はスタンドではなく、グラウンドに近い球場係員の部屋で見ていたのですが、旧知の球場スタッフ、その名も山田さんがつかつかっと私の所にやって来て「出野さん、ヤマ(山田)のインタビュー頼みます。試合が終わったらすぐにマイクをグラウンドに出しますから」「え?私、もうスポーツ担当のアナウンサーじゃなくなったんですよ」「知ってますよ、でもヤマのインタビューするのは出野さんしか居らんでしょう」

 ひょっとするとスタンドには先輩のS,Mアナウンサーも来ているかも知れないとは思ったのですが、「え~い、ままよ」と、グラウンドに飛び出しました。
長いケーブルをひきずってマウンドに、何をどうのように聞いたか忘れましたが、山田が球場のファンに両手を上げて応える姿、スタンドのお客さんの大きな拍手は今でもよく覚えています。

 一人のスター選手の引退に立ち会い、インタビュー出来たのもさることながら私の背中を押してマウンドに行かせてくれた、もう一人の山田さんに本当に感謝しています。

出野徹之(KTV)

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