私の「想い出の一曲」 イエローサブマリン音頭

私の「想い出の一曲」 イエローサブマリン音頭

 金沢明子の「イエローサブマリン音頭」、覚えていますか?もちろん元歌はザ・ビートルズなのですが、金沢が明るくコブシをたっぷり回して歌った一曲。ヒットチャートで64位まで行ったそうですから、中ヒットというところでしょうか。ビートルズのかつてのプロデューサーが亡くなったという新聞記事を読みながら、ある場所とともにこの曲を思い出しました。

 1993年2月、日本の自衛隊初の国連平和維持活動(PKO)としてカンボジアに部隊が派遣されました。日本隊は首都プノンペンから約1時間、南部の町、タケオに駐屯、日本のメディアもプノンペンやタケオに駐在して取材活動を行いました。当時私が特派員として駐在していたシンガポール支局にも取材に参加するか?という誘いがあり、一も二も無く「参加」と手を上げました。まだカンボジア国内ではポルポトの残党がゲリラ的に活動をしていて、危険な国、地域でもあり、キー局のフジテレビでは参加、不参加の意思を聞いてきたものです。

 最終的には合計8回、カンボジアに行くことになるのですが、第一回は1993年2月23日から3月19日までの約3週間、東京からフジテレビクルー、マニラ、バンコクのフジ支局のクルーとともに、首都プノンペンのホテルカンボジアーナを支局とする、2泊3日タケオ泊まりの輪番勤務がスタートしました。
タケオでは民家を一軒借り受け、近くの沼から水道を引き、バンコクから電気冷蔵庫(停電が多いので“ただの箱になりましたが)を持ち込んで万全の体制、常に2クルーが重複して泊まれる体制を敷いてPKO活動の取材を行いました。

 プノンペンにはレストランがありましたが、片田舎のタケオには食事をする店などありません。日本、バンコク、シンガポールからレトルト食品、インスタント食品を持ちこみました。周辺の取材に出てお昼頃になると基地から無線が入ります。「お昼は何にしますか?」と言ってもインスタントラーメンとかレトルトカレーくらいしかないのですが、「何々を頼みます」と言って基地に帰ると準備ができている、といった具合。カンボジアはフランスの植民地でしたからプノンペンでは美味しいフランスパンが手に入ります。タケオ勤務に向かう時はフランスパンを数本買って行くことになっていましたのでフランスパンとインスタントラーメンといった食事はタケオ定番でした。

 自衛隊の任務は、内戦で破壊された国道の補修、赤土の地道をブルドーザーなどの機材を使って修復して行きます。広大な基地には宿舎が立てられ、周辺はポルポトのゲリラ活動に備えて深い掘割が作られて常に隊員が警戒に当たっています。

 「イエローサブマリン音頭」を聴いたのは正に、このタケオの宿舎でのこと。
ある時、日本から金沢明子一行が隊員の慰問に訪れました。普段は食堂として使われている大部屋に臨時のステージが作られ、和服姿もあでやかな金沢明子登場、これといった娯楽も無い毎日ですから駐屯以来初めてという盛り上がりになりました。部屋いっぱいに詰めかけた隊員も一緒になって「イエローサブマリン音頭」の大合唱、
♪We all live in a yellow submarine, Yellow submarine 
潜水艦♪
ビートルズもカンボジアの田舎タケオで、こんな風に、コブシを回して、まるで違う曲みたいに歌われるとは思ってもみなかったでしょうね。

 今度は、金沢が聞き役になって隊員へのインタビュー。
金沢「楽しみは何ですか?」
隊員「矢張り食事ですかねぇ。それと日本の家族からの手紙ですね」
金沢「最近の便りは?」
隊員「もうすぐ子供が生まれるんですよ」場内大拍手!!
金沢「お名前はもう決めているのですか?」
隊員「男だったら“タケオ(駐屯地)”にしようかと」場内大拍手と大爆笑。

 プノンペンでは、当時、国連事務次長でカンボジア援助活動の責任者であった明石代表にインタビューをしたり、シアヌークビルという港で北朝鮮の船が内戦で出た大量の鉄材を積載する様子をスクープしたり、政治の絡む取材が多かったのですが「イエローサブマリン音頭」の取材はちょっとほっこりする話題として記憶に残っています。
この曲、インターネットで調べてみると面白い事を発見しました。プロデューサーはシンガーソングライターの大滝詠一、日本語の訳詞は「木綿のハンカチーフ」の松本隆、編曲はクレージーキャッツのヒット曲を殆ど手掛けた萩原哲晶という錚々たる顔ぶれで、これが萩原の遺作になった、というエピソードもあるようです。曲の所々には「錨を上げて」や「軍艦行進曲」のモチーフも入っていて、彼らがワイワイ楽しみながら作ったのだろうなと想像しています。

出野 徹之(KTV)

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