徒然なるままに プロ野球昔噺

 

 今年の日本シリーズは巨人がなす術もなく、ソフトバンクの圧勝に終わりました。ソフトバンク・ホークスの選手たちは個性派揃い、どこからでも仕掛けが出来る凄いチームです。私は阪急時代からのオリックスファンですが、来年も勝てないかなぁ、と今から心配しています。

 日本シリーズを見ながら、30数年前の球団譲渡を思い出していました。私は1988年8月、突然の人事異動で報道部に移り内勤デスクの修行をしていた10月のある日、南海ホークスが球団譲渡されるという一報が飛び込んできました。ほんの数か月前まで本業にしていた職場なので、取材を命じられ大阪球場に急行しました。ロッカーに行くと親しく付き合っていた、かつての名三塁手、藤原満とバッタリ。顔を合わせるなり、いかつい顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を腕で拭いています。堅実な守備、シュアーな打撃で、派手さはありませんでしたがファンにこよなく愛された南海を代表する選手でした。その顔には“悔しい”と書いてありました。杉浦監督(当時)は新しいフランチャイズ、福岡に出発する時、大阪の南海ファンに「行って来ます」と挨拶しました。「また難波に帰ってきます」という意味だったのでしょうね。藤原の悔し涙の顔は今でも忘れることが出来ません。

 ところが、その一週間後、他人事ではなくなる出来事が起こりました。関西テレビの大株主、阪急電鉄傘下の阪急ブレーブスが、オリックスに譲渡されることになったのです。私はシーズン中も、ポストシーズンもブレーブス絡みのイベントの司会などを一手に引き受けていたので大ショックでした。その日、社内で当時のY副社長に廊下でバッタリお会いした時、「俺には何の相談も無かったんだ。これから電鉄本社に行ってくる」とカンカンでした。関西テレビには阪急電鉄から重役がやって来て、その後、社長になるというのがルートになっていてY副社長は当時、阪急ブレーブスのオーナー代行も兼ね、ブレーブス愛に燃えた方でした。

 話をホークスに戻しましょう。1977年野村克也さんが監督を解任された時、マスコミ各社に急遽報せがあり、先輩アナウンサーと記者会見に行きました。
「、、、、、にやられた」と開口一番。会場はホークス御用達のホテル南海ではありませんでした。野村さんの“意地”だったのでしょう。

 その後を任された広瀬叔功さんの就任会見のエピソード。バラバラになった選手の気持ちを何とか一つにという広瀬さんの南海愛と真面目さからでた言葉でしたが、集まった記者諸氏が「?」と首を捻りました。
「これからは全員、ヒトマルとなってチームを立て直していかねばならんのです」。記者「ヒトマル?って言ったよな」「言いました」「なんやろう?」「、、、、、アッ、一丸と違いますか?」「そうや、イチガンや」「各社統一しましょう。イチガンで~す」という笑い話も。出野もその場に居りました。

 余談ですが広瀬さんは、ビールに氷を入れて飲むのがお気に入り。2月の高知キャンプでは、街中のスナックで知らない人は居ないくらい有名でした。

 もうひとつ余談。以前、定例懇話会に来て頂いた、指揮者の堀俊輔さんは大阪出身で熱烈な“南海ホークス”ファン。関東在住ですが、関西での仕事の時、わざわざ難波パークスまでホークスの痕跡を確認に行かれました。「ホームプレートの位置までありましたわ」と嬉しそうでした。亡き日下部吉彦さんとは“ホークス仲間”でしたが、日下部さんが“ソフトバンク”ファンになったのを知って“裏切者!”とからかっていました。堀さんと仕事をすると、アフターコンサートで私が関わっていた頃の南海話をせがまれて、帰宅が遅くなったのを覚えています。

 関西の電鉄各社がプロ野球のチームを持っていたのを知る人が段々少なくなってきました。今は昔の物語です。     

関西テレビ・出野徹之

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