タイの民主化運動と「想い出の一曲」

 

 テレビ、新聞で毎日のようにタイの民主化要求運動が報じられています。

 軍事政権の続きと見られているプラユット政権の退陣と民主化要求に加えて、これまでタブーとされていた王室批判にまでデモは発展しています。ただ唯一の救いは未だ軍隊が動いていない事だと思っています。

 1992年5月18日、シンガポール特派員の私は、フジテレビ・バンコク支局の要請でタイに入りました。それまでの数日、民主化を望む国民のデモに対し軍隊が出動、発砲するなど騒乱状態になったバンコクから取材映像の素材を日本に送れなくなり、乗客に託して運ばれてきたENG素材をシンガポール国営放送から東京に衛星で送るサポートをしていたのですが、遂に応援の依頼となったのです。

 バンコク、ワイヤレスロードの支局に到着後、打ち合わせをし、早朝3時出勤を決めて近くのホテルにチェックインしたのが11時頃、少し寝ておこうとベッドに入った直後、フジテレビ外信部から「再び流血の惨事!」と電話でたたき起こされ支局に走りました。午前1時でした。

 若いキティワットカメラマンが凄い映像を撮影して帰っていました。ロイヤルホテルに逃げこんだ若者たちを兵士が軍靴で踏みつけながら何か大声で怒鳴っています。走りこんできた若者が兵士に突き倒されます。血だらけの若者もいます。カメラの目線は低いまま、キティワット君は自身寝ころびながらカメラを回していたようです。銃で撃たれるかも軍靴で踏みつけられるかもしれない状況下で。すぐにスタンドアップ(立ちレポ)を撮ってフジテレビに衛星伝送します。タイでは外国の支局でも独自で衛星伝送が可能なのです。

 翌日、カメラマンと王宮近くで休息をとる軍隊など取材を開始しましたが、多くの市民に発砲した兵士たちは何となく殺伐とした顔をしています。海外特派員でしたと言うと「命の危険といったような取材がありましたか」とよく聞かれるのですが、この取材では自動小銃を持った大勢の兵隊とすぐそばで数日顔を合わせるという、不気味な思いをしたのは確かです。

 戒厳令が出て自由に動けなくなった20日の深夜、皆でテレビを見ていると、ベテランのソムサックカメラマンがふと耳を傾け「ちょっと待って。王様の曲が流れている」と言うのです。確かに玉座が映し出され何やら曲が流れています。

 プミポン(前)国王は国民に大変慕われた、大変人気のある王様でした。文化面でも多くの業績があり作曲もすると言うのです。

やがて王様が席に着かれ、民主化運動の標的となったスチンダー首相と民主化運動の指導者チャムロン氏が両脇に“横座り”して王様の方にゆっくりとにじり寄っていきます。言葉は判りませんが、武力衝突を憂慮して、これ以上事態が悪化しないよう、諄々と説いておられるようでした。

 やがて二人は平伏、戒厳令が解除されました。夜明けを待って街の取材に出ると疲れた表情の兵隊があちこちでたむろしていますが、昨日までのように我々に尖った目を向ける訳ではありません。

 最初に見かけた市民は、さすが仏教の国、タイです。黄色い袈裟懸け、裸足で歩く托鉢のお坊さんたちでした。軍部による武力鎮圧で300人以上の死者が出た、この事件は後に「暗黒の5月事件」と呼ばれるようになりました。

 2016年10月にプミポン国王が亡くなって4年が経ちました。敬愛の的であった王室批判が公然と叫ばれるなど、今回の民主化運動は新型コロナの影響もあって以前とは比べ物にならない複雑な要素をはらんでいるようです。

 (出野徹之)

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